CAMLANDは、インターネットについての発想から生まれたのではない。ひとつの出会いから生まれた。 画面も、トークンも、流れ続ける会話も、分単位で買われる幻想も、やがてこの世界を満たしていくさまざまな人物も、その前にまずRinaがいた。FREDが最初に現実の生活の中で知った女性。その事実は多くのことを変える。画面は、そのあとに来たからだ。

Rinaはカムモデルとして働いていた。カメラの向こう側に何があるのかを知ることなく眺められる、無数のシルエットのひとつで終わることもできた。けれど彼女は、イメージになる前からひとりの人間だった。時間と信頼が積み重なるにつれ、Rinaは仕事のこと、その舞台裏、ユーザー名の向こうにいる男たち、要求、言葉、振る舞い、見る側が自分では何を見せているつもりなのか、そして本人も気づかないまま何をさらしてしまうのかを語った。

何より彼女は、観客には決して見えないものをFREDに見せた。カメラの前にいる女性だけではなく、画面の反対側を。FREDは何度か、カメラには映らない死角からセッションに立ち会ったこともある。客としてでも、場面の一部としてでもない。ただ、カメラが点いたときに実際に何が起きているのかを見ていた。この視線の移動は重要になった。画面の前にいる人は、自分が見ていると思っている。けれど向こう側でも誰かが彼を見ている。メッセージを読み、待ち、時には受け止め、役を演じ、その役から自分を守り、笑い飛ばし、あるいはただ、あと数時間をやり過ごそうとしている。

CAMLANDは、その発見から少しずつ生まれた。男性を告発するための世界でも、ウェブカメラの前で働く女性を理想化するための世界でもなく、ましてや性についての道徳講座でもない。CAMLANDが見つめるのは、欲望が画面と出会い、その画面が人間を「役」に変えてしまうとき、何が起こるのかということだ。支払う人、見られる人、求める人、応える人。そしてその役の向こうには、それでも人間のままでいる二人がいる。

だから曲のRinaは、現実の女性をそのまま語るものではない。彼女を変換する。曲の中のRinaは、ほとんど舞台上の存在になる。磁力を持ち、危うく、自分の力を知っている。力関係は反転する。見に来たつもりの男は、自分こそ罠に落ちる側かもしれないと知る。画面の中の女性は、ただ欲望される対象ではなくなる。彼女も見返し、知り、場を支配する。観客だと思っていた男が、今度は見られる側になる。

現実よりも意図的に大きく、暗く、演劇的に描かれている。歌は報告書ではないからだ。真実の一部を取り出し、少しずらすことで、別の真実を浮かび上がらせる。それでも、光と眩暈と力のRinaの背後には、最初のRinaがいつも残っている。画面より先に出会った女性。そして、ひとつの世界全体が形を持ちはじめるきっかけになった人。

この物語の痕跡は、別の場所にも少しずつ残っていく。たとえば、赤いソールの黒い靴。ここに現れ、また別の場所にも現れる。ただし、同じ意味とは限らない。FREDでは、いくつかのディテールが旅をする。そしていつか、十分な数の曲やイメージや世界を結び合わせたとき、ある物語同士は実は一度も応答し合うことをやめていなかったのだと気づくのかもしれない。