言葉は、それを誰が口にするかによって、不思議なほど重くなることがある。Madame Merciでその言葉は、もっともありふれたものの一つ――「ありがとう」だ。表面だけ見れば、何も特別ではない。けれどRinaの口からその言葉が何度も何度も返ってくるうちに、FREDは少しずつ心を揺さぶられていく。ありがとうと言われることが居心地悪いのではない。その言葉が何を意味しているのか、次第に分かってくるからだ。彼女は特別なことをしてもらったから礼を言うのではない。そこにいてくれること、話を聞くこと、何も要求しないこと、そして何より、多くの人が「利用できるイメージ」を見る場所で、ひとりの女性を見続けてくれることに礼を言う。
ここはおそらく、CAMLANDが幻想からもっともはっきり離れ、人間へと戻っていく場所の一つだ。このユニバースは、RinaがFREDにスクリーンの向こう側を見せたことから生まれた。けれどその発見は、roomの中で男たちがどう振る舞うかだけではない。繰り返される視線が、それを受ける側に何を残していくのかにも関わっている。ひとりの人間が機能として欲望され、仕草や要求、買われた時間、身体の断片へと切り分けられていけば、ただ普通に見てもらうことさえ「ありがとう」と言うほど珍しいものになり得る。
Madame Merciは、その逆説から始まる。敬意は恩恵であってはいけない。見返りを求めずに誰かの話を聞くことが、特別な出来事であってはいけない。仕事や身体、カメラの前で演じる役割より先に、その人自身を認めることは、本来なら日常に属するはずだ。ところがこの歌では、その「普通」が貴重なものになる。そしてRinaがありがとうと言えば言うほど、その言葉は彼女一人のこと以上を語り始める。そんなわずかなことにまで感謝しなければならないと思わせた世界そのものを語り始める。
だから歌は、CAMLANDという像の向こうにいる現実の女性へと戻っていく。ここでRinaは、自分の名を冠した曲の中の磁力を帯びた、ほとんど危険な存在でもなければ、La Meuteで影に取り囲まれるセイレーンでもない。パリで出会ったひとりの女性に戻る。自分の歴史があり、移動があり、失ったものがあり、生き続けるためにしなければならなかったことがあり、それでも人生の向きが変わったあとに立ち続けてきた人へ。この曲は彼女を聖人にしようともしないし、FREDを彼女を救う人にもしない。むしろ大切な原則はそこにある。誰かを人間として見ることに、英雄的なところなど何もない。
だからこそ、Madame Merciは大仰な歌にはなれなかった。音楽が探すのはむしろ、やわらかく、綿のように包み込み、ほとんど宙に浮くような感触だ。現実を美化せずに包み、関係を甘い恋愛物語へ変えず、言葉の居場所を残す音楽。歌が語っているものが繊細だからだ。ひとつの会話、一杯のコーヒー、一脚の椅子、誰からも役を演じるよう求められない数時間の中で、もう一度見つけられる尊厳。
CAMLANDを語るために選んだ三曲のあいだには、はっきりした流れもある。Rinaは扉を開き、スクリーンの反対側を見せる。La Meuteは、匿名性と集団がひとりの人間を人として見なくなったとき、何が起こり得るかを示す。そしてMadame Merciは、もう一度その人のもとへ戻る。デジタルな視線の仕組みをすべて通り抜けたあと、最後に必要なのは最も単純なことなのかもしれない。イメージの向こうにいる誰かを、もう一度見つけること。
この題名は、もしかするとその考えだけでできている。普通に見てもらえたことに女性が「ありがとう」と言うのなら、奇妙なのは彼女ではない。傷んでいるのは世界のほうだ。
